福岡の公園で亡くなった1年生の男の子、
携帯のストラップで首をしめて殺害したのは母親だった…
朝からこんなニュース、子どもと見たくない!見せたくない!と思うのですが、
連日のようにいじめ自殺や親殺し・子殺しのような
残虐で哀しい事件が飛び込んできますね。
目を覆い、耳をふさぎたくなるけれど、
いやがおうにもテレビから
ラジオから
ネットから
そして人の口から
入ってきてしまうのが現実ではないでしょうか。
日本は病死を除く死因で最も多いのが自殺。
その数は交通事故の死者数をぬいて年間3万人を超えるといいます。
子どもの自殺が相次ぎ文部科学省大臣宛てに
自殺予告の手紙まで寄せられるようになったとき、
伊吹大臣は次のような子どもたちへのメッセージを発表しました。
<だれにでもいいから、はずかしがらず、一人でくるしまず、いじめられていることを話すゆうきをもとう。話せば楽になるからね。きっとみんなが助けてくれる。>
いじめる側に対しては
<弱い立場の友だちや同級生をいじめるのは、はずかしいこと(中略)ひきょうなこと、あとでばかだったと思うより、今やっているいじめをすぐにやめよう>
うちの子どもたちもこのメッセージが書かれたプリントを学校からもらってきましたが、はたしてこれが子どもたちの心に響くでしょうか?
私にははなはだ疑問です。
「みんなが助けてくれる」なんてきれいごとは通用しない、
そんな信頼は持てない、という絶望感があるからこそ
「誰にも言えなくてくるしい」し、
「いじめられていることを話すゆうきなんてない」
のではないかと思います。
子どもたちは言います。
「助けてくれる人がいないから、死にたくなるんだよ」
「話す勇気が持てれば苦労しないよ」
「こんなので、いじめがなくなるわけがないよ」
いじめている側にしても、
よくないとわかっていてもその子をいじめないと
今度は自分がいじめの標的にされる、という恐怖感からやめられないとか、
「みんなと合わせているだけで、ぼくのしていることはいじめなんかじゃないよ、と「いじめ」とは認識していない無自覚ないじめもたくさん存在することと思います。
文部科学省は「何も対策をしなかった」と国民に言われたくないために
こんなメッセージをばらまいたの?とついつい言いたくなってしまいます。
この本にはいじめが元で学校に行けなくなり、不登校やひきこもりの末、
フリースクールに出会い、
“自分の居場所”を見つけた子どもたちの声が収められています。
居場所を見つけるまでの道のりのなんと険しく厳しいことか!
編著者の奥地圭子さんは公立小学校の教師を22年間勤めた後、
1985年にフリースクール「東京シューレ」を立ち上げ、
長いこと子どもたちに寄り添った活動をしてこられた方です。
シューレの子どもたちや奥地さんは
「いじめがあっても学校に行き続けなくてはならない状況が、
子どもを死まで追いつめる。
いじめがあれば、学校を休んでよいし、
学校へ行かないことが身を守る」
ということを訴えてきました。
しかし、このような考え方は、学校中心の考え方が強い日本社会では、
まともに報道されることは少なく、
文部省や教育委員会が取り入れることはありませんでした。
ごく最近は少し様子が変わってきたように思いますが
「わが校には、いじめはありません」
という先生たちの知らない水面下では、
件数にカウントされないネットいじめや
陰湿ないやがらせが横行していることは想像に難くありません。
また「いじめ」と「いじめられ」は些細な出来事をきっかけに入れ替わることもあり、
子どもたちは日々緊張を強いられ、強いストレスを溜め込んでいます。
何かのときにそのストレスが爆発してしまうと歯止めが効かなくなるのでしょう。
いじめに走ってしまう子どもの背景には、
格差社会の広がりもあるようです。
経済状況や精神面にゆとりのない家庭が増え、
子どもが求めるぬくもりや安心感が得られない場合や
疎外感を抱える場合に、
他者をいじめることによって心のバランスを保っている、とも考えられます。
子どもたちの感覚とずれる教育政策、いじめ対策。
ずれない適確な支援をしていくためには
当事者である子どもたちの声をもっと聞く、
きちんと耳を傾ける、ということが大事、と本書は述べています。
忙しさに紛れ、半分聞き流していることの多い私はドキっとしましたが、
この先はちょっと意識して、
仕事や家事の手を休めてちゃんと子どもと向き合って話をきいてあげよう!
と思った1冊でした。