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山間にある一軒家。そこが佐藤円さん家族の暮らす家です。近くにはコンビニもスーパーもありません。冬はまきストーブも活用して三度の食事を作り、おやつを手作りし、ご主人の焼いた炭を商品化して配送し、お風呂はまきで沸かす、手仕事を積み重ねた生活を送っています。足りないものを数えるのではなく、あるものを数え、たし算していく考え方。そこに、円さんの心の豊かさがあるようです。

―― 田舎で暮らしたご経験はありましたか。
町場でしか暮らしたことがなかったので、火も焚けませんでした。焚きつけは段取り八分と言われますが、1年かけて用意するものなんですね。最初の年はまきが乾いていなかったので、お風呂を沸かすのにも苦労しました。いちばんせつなかったのは、寒いなか1日炭焼きをして帰ってくる光夫さんを、温かいお風呂をわかして迎えてあげられなかったことです。
家も、13年誰も住んでいなかった壊れそうな家。畳はカビている状態で、押入れにはノネズミが食べたどんぐりのカスとフンが山ほどあって、目まいでクラッときたほどでした。
お金もなく畳を変えることもできないので、何度も拭いて干してを繰り返し、床にはニスを塗って、つねに家の修理をしていました。
夏場のカビも拭き掃除がたいへんでしたが、冬は洗濯機も凍ってしまい、お風呂のお湯で洗濯機を溶かすところからはじまって、深夜にガタガタ洗濯していました。
―― 町の暮らしに戻りたいとは思いませんでしたか。
それは、思いませんでした。すごく働かせられる家だったけど、それで健康にさせてもらい、アトピーも治りましたし。それ以外は、極めて楽しく、毎日が発見の連続でしたから。不便さよりも、楽しさのほうが大きくて、町の暮らしに戻りたいとは思いませんでした。町なかにいるときは覚えられなかった花や木の名前も、普通に暮らしているだけで、道ばたの草花の名前を覚えられます。お茶になる植物も、毒になる草も少しずつわかってきました。
―― 七ヶ宿に来る前は、どのような生活を?
20歳前後は体のことも気にかけず、不規則な生活でした。自分が何者なのか、どう歩めばいいのか見つけたくて、いろんな人やモノに出会いたくて、家に帰るのは明け方。朝晩が逆転していました。
写真を撮るのが好きで、その頃は夜にモノづくりをしていたんです。食べものもバランス栄養食品だけでいいくらい。
―― その生活を変える転機となったのは?
デザイン関係の会社に就職して1年くらい働いたのですが、自分の仕事がうまくいかないのは人のせいだと、他人の責任にする自分がいて、気持ちの上でまずいなと思っていました。
体のほうも、アトピーがひどく、薬を使っていると内臓に副作用があって、まずいなと思っていた頃、『ネイティブアメリカン』という1冊の本に出合ったんです。
大地とともにある生き方を読んだとき、震えがきて、夢中になって一晩で読みほし、また1週間かけて読みなおしました。
アメリカインディアンの部族の一つであるホピ族を扱った『ホピ族の予言』というビデオも見て、さらに思いが強くなり、ホピ族のシンポジウムに関わり、そこから野草社に縁ができました。すべて自然な流れだったんです。
―― 出版社をやめる不安はありませんでしたか。
野草社でいろいろな方と出会い、生活ぶりを知り、自分もちゃんとしなければと思っていたので、不安もなく、東北に流れるように来て、ここで暮らすことが決まりました。
来た当初は、春から秋まで光夫さんが森林組合で働き、冬に炭焼き。私はスキー場でアルバイトをしていました。炭焼きの専業になったときは収入が大変なことになりましたけど、炭焼きをやめるとか、ほかの仕事で収入を得るという考えはありませんでした。
炭焼きの師匠である石太郎さんがすばらしい方というのもありましたが、炭焼きを過去のものとして文化財資料館に残すのではなく、今を生きるための仕事として残したかったんです。
これから炭を焼きたいと思った人が暮らせるひな形を作ろうと、なんとか食べていこうと、小物を作ったり、とにかく必死でした。次代につなぐ、いい仕事をいただいたと思っています。
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